乱暴な話

五月が終わり、六月が恐らくこれから始まる。

もしかしたら人類史が焼却されて気付いたら来年の1月とかになっているかもしれない。少なくとも、このブログ史は2019年4月7日から今日までの歴史が観測できないので、焼却されている可能性がある。焼却ってなんだ。なんだろう。過去の存在を現在が証明し続けているみたいだけど、かといって過去が現に存在するわけじゃないのにな。タイムマシーンはあると思いますか? 過去に飛んだ瞬間、過去が無になっていることに気づくみたいな話を目にしたことがあって、なるほどなと思ったのを覚えている。頼れるのは現在だけなんて、寂しく苛烈な現実だ。だから記録が我々を慰めてくれる。記録があると生きやすくなるのは、我々が記録の塊みたいな存在だからなんだろう。記録は無限に膨れてしまう性質があるから、いつか破綻して壊れてしまう。そう思うと不老不死なんてロクなもんじゃないなって感じしない? 破綻ギリギリのどっかで記録をリセットして生まれ変わるくらいしか方法がないと思うんだけど、それって仏教の輪廻じゃん、っていう。夢も希望もないね。でも、夢も希望もないっていう現実を受け入れることこそが希望。悟り。やっぱり仏教じゃん、っていう。

夢も希望もない人生だけど、目標や欲求があるのが我々なので、まあまあ達成して満足できる程度には生きている。5月に何をやったのかはもはや覚えてないけれど、4月と比べたら何かしらやっているだろう。4月に何をしたかもやはり覚えていないので、そもそも比較が成立していないのだけれど、直近の方がいい人生と感じるならそれに越したことはない。楽観主義も甚だしいけれど、悲観を乱暴にぶん殴っていく人生でありたいので良しとする。名誉やら尊厳やらを引き換えにするとしても。

人生の話をしてしまっている。人生の話は適当なことをぺちゃくちゃ喋ってもこれが俺の人生だと言い切ってしまえばいいから楽ちんだ。だから議論は成立しないし、飲みの席などで大して親しくもない野郎が人生の話をし出すとうんざりしてしまう。けれど、話してる側は気持ちがいいのよな。わかるぞ。なんでわかるって俺以外にそんなこと話してる人滅多にいないもん。いや、俺だってそんな話しねーけど。たまにしか。やらかしてるときしか。

今は、自分で″良い″と思えることをしていきたい。具体的な野望がないから、現時点でできる″良い″と思えることをやっていきたい。でも、なんとなく楽ちんでそこそこ楽しいことばかりやってしまうんだよな。それも悪くはないんだけど、″良い″といえなくもないんだけど、なんか違う。なので、とりあえず自分と向き合い続ける日々だ。正直にいえば、引きこもりたい願望がある。世間から離れたいというか、自分だけで完結する何かを求めてしまうというか。偏屈な頑固ジジイってこうやって生まれるんじゃなかろうかって思わなくもないけれど、人と距離を取るとなんとなく感じるものがある。ただ、距離を取ってばかりで距離の詰め方を忘れつつあるのが心配だ。人間一人じゃ何もできないのに。結局誰かを求めてしまうのは目に見えているのに。

生き方が乱暴なんだよな、と最近ようやく自覚してきた。今までは、自分が乱暴だなんて考えたこともなかった。ちょっと大雑把かなと思うことはあっても、大した問題とも思わなかったんだよ。それが、ここにきてハードルになってきている。ディティールの欠如については知ってたけど、大して鋭敏でもない感覚に頼った思考を繰り返して、理屈もバランスも欠いた判断ばっかしている。例えるなら、計算力がないから山勘でハイ&ローのゲームをやってるみたいな状況。残りの手札を想像したり、効率を考えたり、何もしてない。知識と経験に裏打ちされた感覚は信用できるけど、そうじゃなかったらサイコロ振る方がまだバイアスがなくて信用できるかもね。

神は細部に宿るらしいよ。神はサイコロを振らないとも。偉大な建築家や物理学者は言うことが違うね。

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