人間性の拠り所

機械的な再現に対する憧れっていうものがある。

子供の頃、パラパラ漫画を書くのにハマった時期があって、ハマったと言っても棒人間を動かす程度のことしか出来なかったけれど、その時に「好きなゲームの1コマをそのまま紙面に再現出来たらすごいな」と思ったのを覚えている。

僕の場合は思っただけで1ミリも取り組んでみようとはしなかったのだけれど、この再現したいっていう気持ちは、恐らく、何かしら人類に共通する“ロマン”みたいなものなんじゃないかと、ふとゲーム音楽をそっくりそのまま再現している生演奏動画を見て思った。

最初に思ったのは「すごい、原曲と同じだ」だった。

その後に思ったのは「原曲と同じすぎて面白みがない」「生演奏である必要ないな」だった。

でも、そのあともずっと聞き続けて、「あれ?」と思い始めた。曲自体は原曲そのままなのに、何かが違うぞ、と。

僕は記憶力も音の聴き取り能力も秀でてないので、正直なところ「原曲と同じかどうか」すら本当のところは分からないんだけど、いずれにせよただゲームやサウンドトラックで原曲を聴くのとは違う感情があるのに気付いて、それはなんだろうと考えた結果、まず思いついたのが先に述べた″ロマン″だった。

「この人たちは、俺がかつて頭の中で憧れるだけだったことを実現しているんだな」と。

ライブ感が重視される生演奏に、機械的な“原曲の完全再現”は適さないと思ってしまうんだけど、そこに“ロマン”っていう要素を組み込むことで、機械的でありながら“異様さ”というライブ感が醸し出される、とでも言ったらいいのだろうか。

生演奏……ライブは“体験”だから、データを再生するのとは違うスリルがある。

多少の演奏ミスはつきものだし、機材の故障で演奏が止まってしまうことだってあるかもしれない。

そんなことを心配するのは一視聴者として「何様なんだ」って感じもしないでもないけれど、何が起きるかわからないのがライブで、そんな中で機械的な動きを実現しようというのは、はっきり言ってどうかしている。

通常の感性では理解できないもの。

不合理的で非効率的なもの。

理屈じゃないもの。

それらを「良し」と言えるものがあるとすれば、それはロマン以外にないだろう。

子供の頃に抱くような憧れの感情を追い求め続けるのは、様々な無自覚の敵意に晒されることでもあるのではないか。

大人になるにつれ“コスパ”という概念が自分にも他者にも牙をむけるようになって、時間や集中力の有限性を感じざるを得なくなって、物事への力の入れ方にいちいち苦言を呈するようになってくる。

「そんなことやってる暇があったら○○すればいいのに」

「それよりもっと○○したほうが盛り上がる」

「○○のほうがニーズがあるんじゃないか」

そんな心無い“本心”と、冷徹な“比較”と、ロマン一つで闘っている人たちがいる。

そんな憶測をつらつら頭の中でこねくりまわしていると、憧れるばかりの自分に嫌気がさして憧れそのものを捨てようとした僕自身の浅ましさとか、何もしてなさとか、まあ、色々思うこともでてくるもので。

実際にロマンを追い求めてある種の到達を成し遂げている人たちがいるのは、救いであるようで、実際は別に誰も救わないというか、成し遂げた時に自分自身を救う以外の意味はないのかなとか。

そもそも何かを再現したいという気持ちって、学びの根幹というか、学びそのものみたいなわけだし。

真似をすること、模倣すること、それらが憧れから出発するとしたら、学習によって知性を蓄えて継承してきた人間の出発点そのものなんだよな。憧れとか、ロマンってやつはさ。

人類に共通するどころの話じゃないよね。

とまあ、無理くりな考察を挟みつつも、“機械的な再現”を追い求めることがあまりにも人間的であるっていうのは、なんとも不思議で面白いなと思う。

必要な努力とか工程とか成果とかは“関係なし”に、単純にロマンを実現するということが、しようとすることが、その舵取りをすることが、なんとなく、尊いことなんだろう。

少なくとも、そういうロマンを目の当たりにして僕の感情が揺るがされたのは確かで、だからこそこんな文章を書いてしまっているわけで、思うに僕が抱いた「原曲と同じすぎて面白みがない」「生演奏である必要ないな」という感想は、僕自身が面白みのない人間だったこと、生演奏を聴くに値しない人間だったことの表れなのかもしれない。

背景や文脈からくるロマンや尊さを知らず、考えず、ただ目の前の事象を受け取るだけというのは、いかにも動物的というか、人間じゃないね。

僕は、ここまで書いて、考えて、ようやくかろうじて人間に戻れたというか、人間性を取り戻した感覚がある。

もし「面白みがない」「必要ない」とすぐに切り捨てていたらと思うと、少し怖い。

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