「生活習慣が違う」

日々の中で欠かさない動き、ルーティーンというものは、身につく人は子供のころから当然のように身についているもので、身につかない人はいつまでたっても身につかないである、というような話をどこかで聞いたことがある。その話にどんな根拠があるのかは知らない。人間は生きていれば否が応でも変化してしまうと考えるのなら、ルーティーンが身についたり、身につかなくなったりすることもあるだろうと思う。

でも、その話については、おそらく経験則というか、実感がこもった話のようにも思えた。生まれてから現時点まで、まともなルーティーンを持っていないという事実が、ルーティーンが身につかない人間であることを証明していると言っているような。

ルーティーンとは違うが、ジンクスというものを持っている人もいるらしい。らしいというのは、僕はそういったものを持っておらず、持っているという人も身近におらず、理解も共感もできないからだ。なので憶測の混じった話にはなってしまうが、ジンクスというものもルーティーンと同様に日々の中で欠かさずに守られ、人間の行動を規定していくわけである。何らかの目的を達成するために、成果を獲得するために、水準を確保するために、ルーティーンもジンクスも設定される。結果として、精神を安定させ、肉体を安定させ、生活を安定させる。そういう効用がある。

人間が活動をするにあたって一番難しいことは、始めることだ。正確に言えば始め続けることが難しく、より詳しく言えば始めるかどうかを決断することが一番難しい。なのでルーティーンやらジンクスで既に始めることを決められてしまっていれば、活動に移ることはさして困難ではない。朝起きて「今日は生きようかな、どうしようかな」といちいち考えなくても生きていけるように、何も考えず当然に始めることができる。手順を省略できる。エネルギーが浮く。浮いたエネルギーを活用することができる。

ルーティーンやジンクスは、選択肢をあらかじめ潰してくれるものなのかもしれない。

毎日の中で、人間は数多くの選択肢に直面する。その選択肢の数々をどのように選択していくのか、その傾向と対策がある。人生の重要なポイントというわけでもなければ、最も好ましそうな選択肢を選んでしまうのが人間なのだと思う。好ましそうな選択肢は、好ましい選択肢であるとは限らず、単に楽というだけのことが多い。少なくとも僕の場合は。なので、選択する際のルールを自分で設けなければならず、意識的に自分を律せねばならない。雁字搦めにして、選択を強制し、矯正しなければならない。

そのエネルギーを、コストカットできる。非常に魅力的だ。魅力的なのに、しかし、身につかない人間はいつまでたっても身につかないと言われている。できる人は最初からでき、できない人は最後までできない、なんて言われてしまう。そんなことが本当にあるのだろうか。まあ、あるのだろう。だが、しかし。

一日が24時間であることは、地球に生きてさえいれば全ての者に当てはまる。でも、一日をどのくらい活動できるかには個人差があって、日々仕事に勤しみながらも趣味や遊びにちゃんとエネルギーを注げている人を見ると、自分とは何が違うのかと思わざるを得ない。

しかし、少なくとも僕は、ご飯を食べたら「今日は食器を洗おうかな、どうしようかな」、燃えるごみの日が来たら「今日はごみ捨てに行こうかな、どうしようかな」なんて考えてしまう人間なのだ。そして大抵は面倒な気持ちが勝るので、切羽詰まったらやろうとか考えてしまう。気まぐれに自分なりのルールを決めても成功率は低く、気づけばそんなルールはなかったことになっている。これでは、趣味や遊びどころの話ではない。身の回りの生活すらちゃんとできていなくて、物事の前倒しができず、常に「やらなければならないこと」が保留され続けてしまう毎日だ。

それをもって「自分はなんてダメな人間なんだろう」と思う、わけでもない。もしかしたらここまで酷いとそう思ったほうがいいのかもしれないけれど、どこかで「人間なんてみんなそんなもんだろ」と考えてしまっている。でも、現に生活の中で差はついている。「そんなもん」じゃない人間が、実際にいるように見える。

ならば、彼らは自分と一体何が違うんだろう。まあ、もうほとんど答えは出ているようなものなのだけれど、それでもあえて今までの話を無視して漠然とした言い方をするならば、「生活習慣が違う」ということなのかもしれない。「思考は言葉に、言葉は行動に、行動は習慣に」とは確かマザーテレサの言葉だったか。性格や運命とまでは言いたくないが、習慣の違いが彼らと自分の違いなのだと思えば納得できる。納得してどうするかはともかくとして。

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